最近の読書

前回書いたのが1月20日。間が開きすぎだな。

 

せめて1週間に1度くらいは書くといいのだが、無精な上に、寒くて、夕食の後はのんびりして、それから風呂に入って蒲団に入って ・・・ という有様で、ましてこれといって書くほどのこともないのだから、ついつい遠のいてしまう。

 

前回、沢木耕太郎の 『』 に言及した気がするが、あれは無事に (?) 読了。買った本だと、返却期限を気にしなくていいので、余裕をもって読める気がする (Book-Off で¥110 で入手した本なので、読まねばならぬ、という意気込みはなかったのだが)。

 

もう読み終えて何日も経ってしまったので、改めて書く意欲がわかない。とはいえ、印象的な作品ではあった。檀一雄の 『火宅の人』 などの代表作は読んだことはないが、読んだことがあるのは、もっと通俗的というか、『夕日と拳銃』 という作品だけ。満州馬賊の出てくる作品で、それなりに楽しんで読んだ記憶がある。もう何十年も前のことだ。

 

沢木耕太郎の 『檀』 は、小説ではない (つまり、ノンフィクションといえるだろう)。作りものではない。ただし、変わっている。沢木耕太郎は1年間にわたって、毎週、檀一雄の未亡人である檀よそ子さんんにインタビューを行い、彼女が語った内容を一種の回想記の形にした。想像するに、書かれているように語ったとは限らないと思う。あれやこれやと話した内容を、沢木耕太郎が時系列にまとめて、あたかも檀よそ子さんが語っているそのままであるかのような形にしたのではないだろうか。

 

作者というものがいるとすれば沢木耕太郎なのだが、その内容を提供したのは檀よそ子さん。しかし、文体的にも構成的にも、沢木耕太郎のものなのだ。

 

檀その子さんの談話が、沢木耕太郎という媒体を通して語り直されたといえるかもしれない。

 

作家の未亡人の回想記だと、印象深いのが坂口安吾の夫人だった坂口三千代さんの 『ラクラ日記ちくま文庫、1989) を思い出す。あれは三千代さんが書いたものだった。

 

それとは違って、本人が書いたわけではないのだけれど、本人が語る形で書かれたもので印象に残っているのが佐賀純一という人の著した 『浅草博徒一代』(ちくま文庫、1993)(これも Book-Off で¥108 で購入した本 )。

 

浅草博徒一代』 は、ある博徒 (伊地知栄治) のもとに往診で通った医師が、その時々に語られる話を録音しておいて、それらを文字化し、時系列に並べなおし、かつ当人の語り口も髣髴とさせるように書いたもので、労作と呼んでも差し支えないもの。

 

ちなみに 『ラクラ日記』 も Book-Off で入手したものだが、なぜだか知らないが¥473 もした (それだけの価値があるとは思うけれど)

 

 

まあ、そんなところなのだが、現在読みつつあるのはガラリと変わってジェイソン・コーゾルドル大暴落の日講談社文庫、1992) である。

 

エンタメ系の小説といえるが、名前を変えてあっても想像がつく日本の企業や人物が登場したりもする。エンタメ経済小説といってもいいかもしれないが、それなりにまともな設定になってたりするとことが興味深い。ただ、サービスからかロマンスの要素も入っているのが、私には余計なことに感じられる。

 

この本は、去年、市の図書館に行った時に、「自由にお持ち帰りください」 みたいな表示のあるワゴンの中にあった本。つまり、無料で入手した本 である。少し古いかもしれないが、蔵書にしておけば読む人がいるかもしれないのに、なぜ放出したのかは分からない。

 

そんなことで入手したのだとしても、せっかく入手したからには読まないのは申し訳ないわけで、毎晩寝床の中で、少しづつ読み進んでいる。これも、返却する必要がないので、気が楽で、マイペースで読んでいる。