延長

G・パスカル・ザカリー『闘うプログラマー ビル・ゲイツの野望を担った男達』(山岡洋一・訳、日経BP社、2009)は、2週間では読み通せなかった。市の図書館のサイトに行って、貸出延長手続きをした。

 

読み始めたら、これは途中で放棄できないな、と思える。とにかく読み通すしかない。そういう本だ。

 

マイクロソフトWindows NT を作り上げて製品として出荷するまでに、多くの人たちが関わって仕事をしていた。そのあれこれの人々についてのエピソードなどをまとめたものだが、すごいと思った。

 

書き手がすごいと思うが、この本を訳した人も見事だと思う。自然な日本語で読めるのはありがたいし、その技量にも敬服する。

 

 

 

 

 

久しぶりに本を借りた

T・ジェファーソン・パーカーという米国の女性作家の 『渇き』 という小説を読んでいた (渋谷比佐子・訳、講談社文庫、1998)。

 

女性作家だからでもあるまいが、リアリティーを出すためか、描写などが細かい。それはそれで、よく描けていると思う。

 

初めて見る翻訳家の名前だが、安心して読める翻訳だ。

 

主人公にあたるジョンが子どもの頃のエピソードが出てくる。そんなことは、話の流れとは関係ないように思えるし、なくても構わないような気がするのだが、とにかく出てくる。

 

両親の乗った小型機(2人乗り)を見送ったジョンは、叔父と叔母のところにいた。

 

夜、叔父が電話を受ける。それからかなり日々が経過し、ある日、ジョンは叔父に連れられて、遺体安置所に遺体確認に行く。

 

乱気流のために山中に墜落したのかもしれない。発見が遅くなったので、遺体の損傷が激しく、叔父は当人かどうか断言できないと言って出てくる。

 

ジョンは、自分に確認させてくれと言うが、担当官は、そんな子どもでは無理だと言うが、保安官が認める。

 

遺体は、確かに確認ができないような状態だった。ジョンは保安官に、あの遺体は自分の両親ではないと断言する。

 

保安官は、そうか、と言って何枚かの書類に署名させる。その後で、その遺体から回収された指輪と、ジョンが母親が飛行機に乗り込む直前に渡した手製のお守りを取り出して、それをジョンに手渡す。

 

保安官には、分かっていたのだ。しかし、君の両親の遺体だとはひとことも言わない。

 

そんなエピソードが出てくるのだが、小説の進行とは関係のない話に思える。

 

それでも、そういう話を挟み込んでおきたくなったのだろう。たとえば芥川龍之介の短編だったしてもおかしくないような、そんなエピソードのように思える。

 

 

などということを書くと、熱心に読んでいるかのようであるが、実は、いま一時中断して別な本を読み始めている。

 

天気がいいので久しぶりに市の図書館に足を伸ばしてみて、1冊だけ借りてきてしまったのだ。

 

G・パスカル・ザカリー 『闘うプログラマー ビル・ゲイツの野望を担った男達』(山岡洋一・訳、日経BP社、2009)というノンフィクション。

 

特にこれを読もうと思って借りたわけではなくて、せっかく来たのだから、何も借りないで帰るのはさびしいなと思って、適当にうろうろしてたら目についたというだけの本である。

 

しかし、初めの方を読んでみたら興味深く、寝床の中で読んでたら第1章は読み終えてしまった。

 

これは読み通してもいいなと思える本なので、何とか読んでしまいたい。『渇き』 を読むのは先延ばしにしようかなと思っている。借りてきた方は返却期限があるのだから優先せざるを得まい。

 

 

 

 

 

 

 

読了記録

レイモンド・チャンドラーさらば愛しき女よ』(清水俊二・訳、ハヤカワ・ミステリ文庫、1995 [1976])を読了した。

 

市の図書館の放出本として入手したものだが、これは得をした気分。有料であったとしても、購入して損はなかっただろう。

 

他のチャンドラーも読んでみたい気になった。原文で読んでもいいな。

 

 

次に読み始めたのは、これも図書館の放出本として入手したもので、T・ジェファーソン・パーカー『渇き』(渋谷比佐子・訳、講談社文庫、1998)だ。

 

男性的なハ-ドボイルド小説の次が、女性作家のミステリとはな。

 

こちらは文庫本としても、わりと分厚い。600ページ以上ある。出た当時の価格が¥1,000だから、無料で入手できたのはラッキーだったかも。

 

文章がかなり細かいので、一気に読み進むというわけにはいかないかもしれない。

 

また、毎晩、寝床の中で読んで、疲れたら眠りにつくということを繰り返すことになる。

 

 

 

 

 

読んでる本: レイモンド・チャンドラー『さらば愛しき女よ』

訳文には引っかかるものがあったりするが、毎晩 レイモンド・チャンドラーさらば愛しき女よ』(清水俊二・訳、ハヤカワ・ミステリ文庫)を読んでいる。

 

たとえば今夜は263ページから読むことになるが、

 

 建物は3階で、屋上に鐘楼があり、・・・

 

という文がある。意味は分かるからいいようなものだけど、普通なら 「3階建てで」 としないだろうか。

 

「オフィスは3階にあって ・・・」 という意味の文なら 「3階で」 でもいいだろうけれど、そうではないのだ。主語は 「建物」 なのだから。

 

 

たとえば195ぺーじに、こんな文があった:

 

 あの娘がブレインさんに呼んで聞かせていたのは、・・・

 

正しくは 「読んで聞かせていたのは」 であるのは明らかだが、これは訳者のミスではなくて、出版した側の問題。1976年に出ていて、私の手にしているのは1995年の [四十四刷] なのだが、その間に気が付いても放置してたのだろうか。

 

 

とか何とか言いながらも、作品自体は面白い。それに、こういう訳文でも、読む上で問題はない。むしろ、流麗な日本語に訳されているよりも、こういう翻訳の方が好ましく思われるくらいだ。

 

会話、やりとりなんかも面白い (中には翻訳では分からないのもあったけれど)。

 

チャンドラーって、こんな面白い小説を書いた人なのか。

 

 

昨夜、ふと思い出したのだが、あるいは記憶違いかもしれないのだが、むかし、相当にむかし、ひょっとしたらチャンドラーを読んだことがあったかもしれない。

 

何となく文庫本の表紙を思い出したのだ。『長いお別れ』 だったような ・・・ ただし、訳者は清水俊二ではなかったような気もする。

 

でも、内容はまるで覚えていない。一応は読んだというだけのことだったのだろう。

 

しかし今はチャンドラーの小説が面白く読める。この年になったせいだろうか。

 

それとも、清水俊二の訳のおかげなのだろうか (ケチをつけておいて言うのも何だけど ・・・)。

 

 

上に引用した 「3階の建物」 のことだが、それは警察署だと思われる。

 

だって、マーローは署長に会いに行ったのだから。

 

ところが、その32章の直前、31章の末尾には

 

 私は、・・・ 市役所へ車を走らせた。

 

とある。いくら何でも、市役所に警察署の署長の部屋があるわけはない。

 

「市役所」 ではなくて 「警察署」 の誤りだろう。

 

こんな分かりやすい誤りが、なぜ訂正もされずに活字になってしまったのか、理解に苦しむ。

 

読了本と読み始めた本

ジェイソン・コーゾルドル大暴落の日』(講談社文庫、1992) を読了した。

 

世界規模での為替相場の謀略的な操作によって、米ドルを暴落させ、日本が米国を支配せんというとてつもないことを考え、実行に移した元日本兵

 

それにからめて、米国人男性と日本人 (独日混血) のラブロマンスも入っている小説。

 

相場の数値の変動が、実際の数字で示されたりして、リアリティを持たせてはいると思う。

 

でも、あくまでもエンタテインメントの域を出るものではないな、というのが私の感想。

 

翻訳の出来は非常に良い。

 

 

そして次に読み始めようとしたのが、レイモンド・チャンドラーさらば愛しき女よ』 (清水俊二・訳、ハヤカワ・ミステリ文庫、1995 [1976]) である。

 

有名な作品だし、清水訳がほとんど定番だったのではないかと思う。ただし、たしか村上春樹も訳してた気がするが。

 

昨夜は、冒頭の描写の部分に目を通したところで、スタンドのスイッチを切って寝てしまった。

 

正直に言うと、いささか失望した。「通り過ぎた」 「価値があった」 「垂れさがっていた」 「余計なものだった」 「人目をひいた」 と、「た」 で終わる文が連続している。

 

原文に忠実に訳されているからそうなるのだろうが、もうちょっとどうにかならないものかと思った。

 

ま、読んでいくうちには、そんなことはどうでもよくなって、内容の方に注意が向いてくるのかもしれないけれど。

 

 

ドル大暴落の日』 も 『さらば愛しき女よ』 も、購入した本ではない。借りてきた本かといえば、それも違う。無料で入手した本である。

 

といっても、万引きしてきたわけではない。去年のことになるが、市の図書館の入り口の前にワゴンセールよろしく本が置いてあって、「自由にお持ち帰りください」 みたいな表示が出ていた。その中から適当に選んだ3冊の中の2冊なのである。

 

 

 

 

 

最近の読書

前回書いたのが1月20日。間が開きすぎだな。

 

せめて1週間に1度くらいは書くといいのだが、無精な上に、寒くて、夕食の後はのんびりして、それから風呂に入って蒲団に入って ・・・ という有様で、ましてこれといって書くほどのこともないのだから、ついつい遠のいてしまう。

 

前回、沢木耕太郎の 『』 に言及した気がするが、あれは無事に (?) 読了。買った本だと、返却期限を気にしなくていいので、余裕をもって読める気がする (Book-Off で¥110 で入手した本なので、読まねばならぬ、という意気込みはなかったのだが)。

 

もう読み終えて何日も経ってしまったので、改めて書く意欲がわかない。とはいえ、印象的な作品ではあった。檀一雄の 『火宅の人』 などの代表作は読んだことはないが、読んだことがあるのは、もっと通俗的というか、『夕日と拳銃』 という作品だけ。満州馬賊の出てくる作品で、それなりに楽しんで読んだ記憶がある。もう何十年も前のことだ。

 

沢木耕太郎の 『檀』 は、小説ではない (つまり、ノンフィクションといえるだろう)。作りものではない。ただし、変わっている。沢木耕太郎は1年間にわたって、毎週、檀一雄の未亡人である檀よそ子さんんにインタビューを行い、彼女が語った内容を一種の回想記の形にした。想像するに、書かれているように語ったとは限らないと思う。あれやこれやと話した内容を、沢木耕太郎が時系列にまとめて、あたかも檀よそ子さんが語っているそのままであるかのような形にしたのではないだろうか。

 

作者というものがいるとすれば沢木耕太郎なのだが、その内容を提供したのは檀よそ子さん。しかし、文体的にも構成的にも、沢木耕太郎のものなのだ。

 

檀その子さんの談話が、沢木耕太郎という媒体を通して語り直されたといえるかもしれない。

 

作家の未亡人の回想記だと、印象深いのが坂口安吾の夫人だった坂口三千代さんの 『ラクラ日記ちくま文庫、1989) を思い出す。あれは三千代さんが書いたものだった。

 

それとは違って、本人が書いたわけではないのだけれど、本人が語る形で書かれたもので印象に残っているのが佐賀純一という人の著した 『浅草博徒一代』(ちくま文庫、1993)(これも Book-Off で¥108 で購入した本 )。

 

浅草博徒一代』 は、ある博徒 (伊地知栄治) のもとに往診で通った医師が、その時々に語られる話を録音しておいて、それらを文字化し、時系列に並べなおし、かつ当人の語り口も髣髴とさせるように書いたもので、労作と呼んでも差し支えないもの。

 

ちなみに 『ラクラ日記』 も Book-Off で入手したものだが、なぜだか知らないが¥473 もした (それだけの価値があるとは思うけれど)

 

 

まあ、そんなところなのだが、現在読みつつあるのはガラリと変わってジェイソン・コーゾルドル大暴落の日講談社文庫、1992) である。

 

エンタメ系の小説といえるが、名前を変えてあっても想像がつく日本の企業や人物が登場したりもする。エンタメ経済小説といってもいいかもしれないが、それなりにまともな設定になってたりするとことが興味深い。ただ、サービスからかロマンスの要素も入っているのが、私には余計なことに感じられる。

 

この本は、去年、市の図書館に行った時に、「自由にお持ち帰りください」 みたいな表示のあるワゴンの中にあった本。つまり、無料で入手した本 である。少し古いかもしれないが、蔵書にしておけば読む人がいるかもしれないのに、なぜ放出したのかは分からない。

 

そんなことで入手したのだとしても、せっかく入手したからには読まないのは申し訳ないわけで、毎晩寝床の中で、少しづつ読み進んでいる。これも、返却する必要がないので、気が楽で、マイペースで読んでいる。

 

 

 

 

読書体力

去年の末に図書館から借りてきた3冊のうち、読み終えたのは1冊だけ。

 

何とか読み通したいと思った 『島崎藤村短篇集』 も、途中までになった。

 

今は便利なもので、ネットで延長手続きが出来るのだが、それが出来るのは1回だけに限られている (そりゃ、いつまでも続けられてはかなわんだろう)。

 

今は、何も借りていない。少し休止期間を置くつもりでいるからだ。

 

代りに、去年 Book-/Off で買っていた沢木耕太郎の 『檀』(新潮文庫、2011)を読んでいる (とはいえ、毎晩、寝る前に寝床の中でちょっとづつ読んでいる程度ではあるけれど)。

 

このくらいの厚さの文庫本なら、一気に読み上げてしまえるだろうと思っていたのに、案外と進み具合が遅い。

 

数ページも読むと眠りモードに陥ってしまうということもあるが、昔だったらもっと読めたような気もする。

 

とにかく通読しさえすればいいという姿勢の読み方から、内容を噛みしめながら読むという方にシフトしたということもあるのかもしれないと思う。

 

これを、"読書体力の低下" と断じてしまうのは酷かもしれない。

 

モノによっては、通読することを重視した読み方もするだろうからだ。