去年もそうだった気がするが、年末に借りた本を、結局は読み終えることが出来なかった。
しかも、借りて2週間後にネットで延長の手続きをしていたので、合わせて4週間くらいあったのに、それでも読み通せなかった。
遅読もいいところだ。
だって、寝床の中で、眠くなるまで読んでるだけなので、あっさりと眠くなってしまったりもする。
自分の買った本であれば、マイペースで読めるのだが、それにしても、これほど遅くては、読書をしてるなんて言って威張れそうにない (別に威張る必要もないのだが)。
横田順彌『平成古本奇談』(ちくま文庫、2022) だけは読み終えたが、ロバート・キャンベル他・編の『東京百年物語2』(岩波文庫、2018) は途中まで読んだだけで返却せねばならなくなった。
残り100ページもないくらいなのだが ・・・
ま、」仕方がない。
アンソロジーなのだが、印象に残るのはフィクションの方だろう。他の人にどういう内奥なのかを語りやすいから。
たとえば谷崎潤一郎「人面疽」は、ミステリーじみているし、薄気味悪さがある。しかも、最後まで謎の解明はなされないままで終わる。
芥川竜之介「魔術」は、いかにもという作品なのだが、作者名がなぜか龍之介ではなくて竜之介になっている。
梶井基次郎「泥濘」は、語り手の意識の流れを描写しているような作品だといえなくもない。
そして、堀辰雄「水族館」は、堀辰雄といえば「風立ちぬ」のような作品があるわけで、いくらかそういうイメージを抱いていたが、その作品では浅草で踊り子をやっている若い女が登場し、その若い女と昵懇であるように見えた若い男が、実は男装した女性で、関係のもつれからか、舞台の上の踊り子にピストルを発射して逃げるも、建物の屋根の上から墜落するのである。
踊り子といえば、永井荷風の「踊子」を読んだことがあるな、という記憶が蘇った。作品としては荷風の方が骨組みがしっかりしているかもしれないが ・・・
それから伊藤整の小説にかかったところで、時間切れが近くなった。伊藤整は例の「チャタレイ裁判」くらいしか知らないのだが、作家であったことも知ってはいた。しかし、作品を読んだことはないので、これが初めてになるはずだった。今夜のうちに読み通せるだろうか。かっこの中の文は、語り手の意識の内容のようだ。それが客観的な描写の文の中に入り込んでいる。面白い趣向といえなくもない。