漱石の語り

ふと、思いついたことである。

 

漱石の 「語り」 について。

 

漱石という作家は、「語り」 の作家であるような気がする。

 

吾輩は猫である』 なんてのは典型かもしれないが、どこまででも話が続けられそう。

 

しかし、ふと思いついたというのは、『坊ちゃん』 のことだ。

 

「坊ちゃん」 とは、坊ちゃんの家にいた下女だか何だかの婆さんが、語り手のことをそう呼んでたという呼称。

 

『坊ちゃん』 という作品のほとんどの部分は、その婆さんに向って、自分が東京を離れていた時の有様を語っているという形のようにも読める。

 

その婆さんは、語っている現在においては既に他界しているのだが、そんなふうな形で書かれていたような記憶がある。

 

記憶は当てにならないかもしれないが、そういう構造だと見ると面白い。

 

語りだから、起承転結などにはこだわらない。漱石の作品にはそういう特徴がある気がする。

 

『こころ』 なんていう変てこな作品も、語りの手法の1つを試してみたようなものではなかろうか。

 

『行人』 を読んで、何とも中途半端な作品だと感じた人も多いかもしれない。

 

まぁ、極めつけは 『明暗』 で、何しろ作者逝去のため、肝心な場面で中断したまま、続きを読むのは永久に不可能になったのだから。

 

 

この 「語り」 から外れているのが 『虞美人草』 や 『草枕』 といった作品で、だから後には作者自身でさえ余り愛着がない作品とみなしたのではあるまいか。

 

海外の小説には「語り」 の小説で有名なのがいくつかある。たとえば、サリンジャーの 『ライ麦畑の捕手』 とか、ナボコフの 『ロリータ』 とか。

 

誰に向って語っているのか知らないが、とにかく誰かに語っている形は取っている。

 

 

ストーリーを読ませる小説と、語りを聴かせる作品。漱石の場合、後者の色合いが濃いように思う。

 

思いつきだから、深く考察したとかではないので、先にいけば考えも変わるかもしれないが、ふと、そんなことを思ったので、メモしてみた。