過去の読了書記録から (1) - 2003年4月~6月

2003年の4月から、その年の6月末にかけて読んだ本のリスト。

 

2003/04/10 酒見賢一 陋巷に在り 第8巻 (新潮社,2003)
2003/04/16 酒見賢一 陋巷に在り 第9巻 第10巻 (新潮社)
2003/04/20 酒見賢一 陋巷に在り 第11巻 第12巻 (新潮社)
2003/04/23 酒見賢一 陋巷に在り 第12巻 [最終巻] (新潮社)
2003/04/25 神坂次郎 およどん盛衰記 -- 南方家の女たち
2003/04/26 酒見賢一 陋巷に在り 第13巻 [最終巻]
2003/05/06 ウンベルト・エーコ 前日島 (文藝春秋,1999)
2003/05/13 デビッド・レイ 首相はスパイ?  -- 英秘密情報機関の陰謀 (読売新聞社,1990)
2003/05/14 チャールズ・ブコウスキー パルプ (学習研究社,1995)
2003/05/18 チャールズ・ブコウスキー くそったれ! 少年時代 (河出書房新社,1995)
2003/05/20 田中克彦 言語学とは何か (岩波新書)
2003/05/21 ジェフ・グッデル ハッカーを撃て! (TBSブリタニカ,1996)
2003/05/22 チャールズ・ブコウスキー ポスト・オフィス (学習研究社,1996)
2003/05/22 高杉一郎 征きて還りし兵の記憶 (岩波書店,1996)
2003/05/28 チャールズ・ブコウスキー ありきたりの狂気の物語 (新潮社,1995)
2003/05/28 R・ギルモア クォークの魔法使い -- 素粒子物理のワンダーランド (培風館,2002)
2003/05/29 南方熊楠 <南方熊楠コレクション> I 南方マンダラ
2003/05/30 チャールズ・ブコウスキー 勝手に生きろ! (学習研究社,1996)
2003/06/05 チャールズ・ブコウスキー ブコウスキーの酔いどれ紀行 (河出書房新社,1995)
2003/06/09 ヤン・ギルー 白夜の国から来たスパイ (TBSブリタニカ,1995)
2003/06/11 スティーヴ・ターナー ジャック・ケルアック -- 放浪天使の歌 (河出書房新社,1998)
2003/06/12 伴野朗 ゾルゲの遺言
2003/06/21 チャールズ・ブコウスキー ブコウスキー・ノート (文遊社,1995)

 

おそらく、この頃の記録が、読了書のタイトルをパソコンに記録し始めた最初のものだと思う。それ以前のものあったかもしれないが、フロッピーに入れてた程度だったのだし、もう読みだせないかもしれない。

 

そうか、この頃にブコウスキーを読んだのか。ていうか、そんな前のことだったのか。

 

市の図書館に所蔵されてたブコウスキーの翻訳書は、すべて読んだはず。ただ、『ありきたりの狂気の物語』 については、どうもしっくりと来なかった。訳者の文体のせいもあったろうか。

 

酒見賢一の 『陋巷に在り』 もなつかしい。この頃に全巻読破したのか。いつか再読してみたい気もする。

 

伴野朗の小説は何冊か読んだし、どれも楽しめたが、この 『ゾルゲの遺言』 については、どんな内容だったのか、まるで思い出せない。

 

こうして書名を並べてみると、自分が まるで読書家 になったかのような錯覚を覚える。実際には、記録の数を増やしたいがために読み飛ばしていただけだったのだが。

 

孤立とゴミ屋敷化、父と娘、殺人

エーネ・リール 『樹脂』 (早川ポケット・ミステリ・ブック、2017) を読み終えた。

 

途中、読み通せないかもしれないと思ったりもしたが、ロアルが登場してからは、普通に読めそうな気になった。

 

なぜそれを読んでみようと思ったかというと、ジョー・ネスボとかホルストの 『猟犬』 とかを読んで、北欧のミステリものが面白く感じられて、女性作家のものではあるがデンマークの小説で、しかも早川のポケット・ミステリに入ってるのだから、てっきりその手のものだと誤解したせいである。

 

 

読み終えてみると、それなりに思い出して、考えてみることもある。

 

一家の孤立した生活。本島があり、そこではそれなりに町の生活があるわけだが、その島とつながってはいるものの、瘤のように独立した地域となっている島。

 

森というか林というか、樹木の地帯や畑なんぞもあるわけだが、他に隣家といえるようなものがあるわけでなし、自然と孤立的な状態になっていったのかもしれない。

 

そんなところに住んでいた一家の主は、自然環境に愛着を持つ人物だったが、2人の息子たちのうちの長男はそこを離れてしまった。

 

残った次男は、父親の性質をより強く受け継いでいる感じだが、外からの刺激がなかったせいか、より風変わりな性情を強めてしまう。

 

それでも、そんな男と夫婦になる女が現れる。元々は、その男の母親の世話をするために来てもらった女だったが、男と親密になったのだ。しかし、男の母親は、二人がいっしょになることを歓迎していない (母親はやがて本島に去る)。

 

その妻は、後に何らかの病的な体質変化によって、ぶくぶくと肥満して、ついには自分の部屋のベッドを離れられないまでになってしまう。

 

それって、カフカの 『変身』 を連想させる。

 

 

ミステリ小説に分類するのはどうかと思われるが、それでも一家の主による母親や妻の殺害というのはある。

 

最後には一家の住居が炎に包まれて崩れ落ちてしまうところは、E・A・ポーの 「アッシャー家の崩壊」 を重ねてるのだろう。

 

 

一人娘リウに宛てて母親が記したメモの中に、スタインベックの 『ハツカネズミと人間』 のタイトルが出てくる。

 

それから、ロアルがマリアのところに辿り着いた時に、彼女の体の上に置かれていたのは 『ボヴァリー夫人』 だった。

 

『ハツカネズミと人間』 を持ち出したのは、正当な殺人 (*) というものがあるという暗喩か?

 

 ペーパーバック版が市の図書館にあったので、借りてきて読んだことはある。

 

『樹脂』 はデンマークの作家の書いた作品だが、リウの母親のメモには、学校の英語の授業で、読んでくるように指導があったということになっており、実際にそういうことがあるのかもしれない。

 

英国では義務教育年限が終わるまでに、英語の小説を何か1冊読み終えるように指導され、一番ポピュラーなのはスタインベックの Of Mice and Men だというのを、どこかで読んだ記憶がある。

 

短編よりは長いが、長編というには短い作品なので、読みやすいということか (でも殺人が出てくるので、日本だったら生徒に推奨されないかも)。

 

 

『樹脂』 を読む前に読み終えていたのが、額賀澪 『拝啓、本が売れません』 (文春文庫、2020) で、こちらはノンフィクションみたいなものだが、それなりに楽しく読めた。

 

若い女性作家のようだが、読ませる文章の書き手だと思う。

 

 

 

 

 

 

   *   *   *

 

上で言及した2冊は市の図書館から借りたものだが、ホームページのカレンダーを見ると、何と、現在は再び休館中だ。コロナのせいらしい。

 

以前休館していた頃にも本を返しにいったら閉館してて、開館状態に戻っても、しばらくは足を運ばなくなったりした。

 

今回はどうだろうか。とりあえず明日、返却口に入れて返却するだけはしておこうとは思っている。

 

 

フロベールの 『ボヴァリー夫人』 は、親父の蔵書に新潮社の世界文学全集の中の数冊があって、その中の1冊に入っていたから、それを見てタイトルだけは、おそらく小学生の頃から知っていた (何だか怪しい内容の本のような気がしていたのだろう)。

 

しかし、ついに読まぬまま年月は経て、やがて親父は他界した。

 

親父の蔵書の大半はお袋がゴミに出してしまい、それらの本を読むことは不可能になった。

 

そんなことまで、ふと思い出した。

 

   *   *   *

 

* 正当な殺人: 殺人に 「正当」 も何もあるのか? ドストエフスキーの 『罪と罰』 では、ラスコーニコフは老婆殺しについては 「正当」 だと考えていた。D. H. Lawrence の Sons and Lovers において母親を安楽死させた行為はどうだろう。同じ Lawrence は The Fox において、邪魔な存在である女を事故死に見せかけて殺すという設定にしている (目撃者がいるようにしたので、いわば完全犯罪だ)。あれまで 「正当」 というのは苦しい気がする。

 

これって、犯罪小説?

まだ1/3も読んだか読まないかくらいだが、何だか不思議な小説だとは感じる。

 

エーネ・リール 『樹脂』 (早川ポケット・ミステリ・ブック) のことだ。

 

「これって、犯罪小説?」 という疑問が湧かないでもないが、殺人が出てはくる。

 

とにかく Glass Key という、スリラーや犯罪小説に対する北欧の権威ある賞などを受賞した作品だから、その手の作品と思って読み始めるではないか。

 

ところが、読み始めてみると 「ん?」 となる。

 

『樹脂』 という小説は、そもそもスリラーとして書かれたものではなく、「純粋に文学作品として書かれた」 ものであるそうだ (→ Ane Riel: Resin)。

 

そうかもしれない。スリラーだったら、こんな回りくどい書き方はしなかったかもしれないだろう。娘や母や、父や祖母や、それぞれの視点があり、時間軸もまっすぐではない。

 

ロブ=グリエの 『消しゴム』 を犯罪小説とか何とかに分類したらおかしいようなものだろう。

 

でも早川書房ポケミスに入ってたからこそ、手に取ってみたわけで、そうでなかったら、果たして読もうと思ったかどうか分からない。

 

 

 

樹脂 (ハヤカワ・ポケット・ミステリ)

樹脂 (ハヤカワ・ポケット・ミステリ)

 

 

難癖

バーナード・マラマッドという米国の作家がいた。日本でも名前が知れている作家だろう。

 

そのマラマッドの生前の最後の作品らしいが、その翻訳を借りてきて読もうとして、書き出しの部分を読んだところで引っ掛かるものを覚えてしまった。

 

こういう文である:

 

 レサーは、さみしい鏡のなかの自分の姿をチラッと見ながら

 

引っ掛かったのは、おそらく 「さみしい鏡のなかの自分の姿」 という部分だろう。

 

文意を取るために読み返さなければならなかった。

 

「さみしい鏡」 とある。形容詞 + 名詞 として、文の流れに沿って読むのが普通だろう。

 

「さみしい鏡」 というのが出てくるファンタジーなのか? と勘違いしてしまいそう。

 

実際には 「さみしい」 のは自分の姿なのだ。

 

それなら、「鏡の中の、さみしい自分の姿」 くらいにした方が、日本語として素直に文意を取りやすいのではあるまいか。

 

想像するに、訳者は、原文の単語の並びのままに、それぞれの語を日本語に置き換えて翻訳文としているのではないかと思われる。

 

その不自然さが、読み進めていくにつれて次々と目について、それが気になって読むことを楽しめない。

 

これは困った。せっかく期待してたのに。

 

ついでにいえば、「チラッと見ながら」 というのも違和感がある。

 

「チラッと」 は瞬間的な動作を表していると取っていいと思うのだが、「見ながら」 と続く。

 

「見ながら」 というからには、見るという動作を継続させながら何かをしているのだろう。しかし 「チラッと」 見るのは瞬間的なものだ。矛盾する表現ではなかろうか。

 

作中のその人物は、眼を覚ましたところである。そうして目を開けたら鏡の中の自分の姿が目に入った。

 

そのまま自分の姿に見入っていたわけでないから、時間としてはほんのちょっとの間のことだろう。

 

原文の単語の並びからは離れて、「目覚めた時、鏡の中の、しがない自分の姿が目に入った。レサーは、書きかけの作品を何としても書き上げなければならないという気持ちを新たにした」 とか、何かしらの工夫があってもいいんじゃなかろうか。

 

翻訳は原文ではない。だから翻訳なのだ。日本語で読めるから翻訳で読むのだ。原文の単語の並びの通りに訳されているものを読みたいわけじゃない。

 

 

もっと書いてもいいのだが、1つのページだけでも何箇所も、私には不自然に感じられるところがあって、それをいちいち引用して示すのもいかがなものかと思うので、そんな真似はよしておく。

 

翻訳は、訳者の日本語を読むわけだから、その日本語の文章が肌に合うのと合わないのがあるのは仕方がないともいえるけれども。

 

 

 

 

 

テナント

テナント

 

 

酒々井

私はもともと別にブログを書いていて、読書関連の投稿もその中に書いていたのだが、それだけを独立させても面白いのではないかと思ってこちらのブログを始めた。

 

ところが、あちらで本からの引用を含むものを書くと、それも読書関連であるように思えなくもなかったりする。

 

今回は、試しに重複させてみようと思う (自分が書いたものだから、剽窃ということにはならないはず)。

 

以下が、別のブログに書いた内容である。

 

 

   *   *   *

 

この地名は読めない。

 

松井今朝子 『江戸の夢びらき』 は初代市川團十郎をモデルにした小説だ。

 

こんな一節がある:

 

 時にガサゴソと草葉を揺らす小獣の気配にも心がなごんで、二人の影法師が前に立ちはじめた頃にはようやく酒々井宿に辿り着いた。

 

酒々井 には しすい とフリガナが付いている。

 

この 酒々井 は、千葉県北部にある町 (人口2万人余り。千葉市から20キロ) で、本佐倉城があり、戦国時代まで千葉氏の本拠地であったという。

 

江戸時代には 成田山新勝寺 に参詣する人たちの宿場町だった。

 

上に引用した部分で團十郎とその妻が目指しているのも成田山であり、新勝寺にお詣りに行こうとしているところ。

 

ちなみに團十郎の屋号の 成田屋 というのは、そこに由来する。

 


◎ 参照 (Wikipedia [酒々井町])

 

 

 

 

江戸の夢びらき

江戸の夢びらき

 

 

棄捐令と札差と損料屋と

最近読んだ本

 

 山本一力 『赤絵の桜』

 

時代小説である。

 

図書館に行くと山本一力の本がズラリと並んでいる。それだけ人気があるということか。

 

棄捐令というのは、むか~し日本史の授業に出てきたような気がする。

 

借金を帳消しにするというのだから、無茶苦茶な命令と思えぬでもない。

 

そうでもしないと幕府の財政が維持できなかったのだから、哀れと言えば哀れ。

 

とばっちりを受けたのが、それまでは羽振りの良かった札差たち。

 

幕府公認の札差だから、限られた人数しかいなかったが、それだけに独占的な立場にあったのだ。

 

山本一力のこの小説では、そういう背景に、深川という土地を結びつけている。

 

私が連想する深川は芸者くらいなものだが、時代小説の中で描かれる深川は、それなりに興味深い。

 

 

土地との結びつきを意識したわけではないが、今読んでるのは岩中祥史という人の書いた 『博多学』 (新潮文庫、2009) という本。

 

その本が出てから10年以上も経ってるから、現在の状況は変わっているかもしれないが、それはそれとして、なかなか興味深い内容を含んでいる。

 

 

 

赤絵の桜 損料屋喜八郎始末控え (文春文庫)
 

 

ダレル兄妹

英国の文学史の上で、後世に名を遺した3姉妹といえば、ブロンテ姉妹だろう。

 

すなわちシャーロット、エミリー、アンの3姉妹。

 

だけど、姉弟は3人だけではなく、6人いたそうだ。

 

 

そんなことを思い出したのは、宮脇孝雄の 『洋書ラビリンスへようこそ』 (アルク、2020) という本をめくっていて、マーガレット・ダレルという人の著書に言及している箇所を見た時である。

 

マーガレット・ダレルの兄は、あの ロレンス・ダレル であり、彼女の弟は、動物方面の著作などで有名なジェラルド・ダレルなのだ。

 

すなわち、兄妹の3人が3人とも、それぞれ分野は異なるが、それなりの読者を得てきた著書を著している。

 

 

マーガレット・ダレルの "下宿屋のおばさん" としての回想記である Whatever Happened to Margo? が書かれたのは1960年代だが、彼女はその原稿を屋根裏部屋に放り込んだままにしていた。

 

それを "発見" したのは彼女の孫娘で、その原稿が書かれてから40年近く経ってから出版された (1995年) のである。

 

彼女が亡くなったのは、それから12年後。

 

 いろいろと面白いエピソードが書かれているようで、読む機会があれば読んでみたいような気もする。

 

 

宮脇氏の本にはロレンス・ダレルの伝記本を紹介した章もあって、それは Gordon Bowker: Through the Dark Labyrinth という本。

 

なるほど、いかにもロレンス・ダレルの作品をイメージさせるタイトルだとは思う。

 

ただ、ダレルの小説は、かつて、翻訳で読もうとしても難解過ぎて、よく分からなかったという記憶がある。

 

 

洋書ラビリンスへようこそ

洋書ラビリンスへようこそ

  • 作者:宮脇 孝雄
  • 発売日: 2020/11/27
  • メディア: 単行本