T・ジェファーソン・パーカーという米国の女性作家の 『渇き』 という小説を読んでいた (渋谷比佐子・訳、講談社文庫、1998)。
女性作家だからでもあるまいが、リアリティーを出すためか、描写などが細かい。それはそれで、よく描けていると思う。
初めて見る翻訳家の名前だが、安心して読める翻訳だ。
主人公にあたるジョンが子どもの頃のエピソードが出てくる。そんなことは、話の流れとは関係ないように思えるし、なくても構わないような気がするのだが、とにかく出てくる。
両親の乗った小型機(2人乗り)を見送ったジョンは、叔父と叔母のところにいた。
夜、叔父が電話を受ける。それからかなり日々が経過し、ある日、ジョンは叔父に連れられて、遺体安置所に遺体確認に行く。
乱気流のために山中に墜落したのかもしれない。発見が遅くなったので、遺体の損傷が激しく、叔父は当人かどうか断言できないと言って出てくる。
ジョンは、自分に確認させてくれと言うが、担当官は、そんな子どもでは無理だと言うが、保安官が認める。
遺体は、確かに確認ができないような状態だった。ジョンは保安官に、あの遺体は自分の両親ではないと断言する。
保安官は、そうか、と言って何枚かの書類に署名させる。その後で、その遺体から回収された指輪と、ジョンが母親が飛行機に乗り込む直前に渡した手製のお守りを取り出して、それをジョンに手渡す。
保安官には、分かっていたのだ。しかし、君の両親の遺体だとはひとことも言わない。
そんなエピソードが出てくるのだが、小説の進行とは関係のない話に思える。
それでも、そういう話を挟み込んでおきたくなったのだろう。たとえば芥川龍之介の短編だったしてもおかしくないような、そんなエピソードのように思える。
などということを書くと、熱心に読んでいるかのようであるが、実は、いま一時中断して別な本を読み始めている。
天気がいいので久しぶりに市の図書館に足を伸ばしてみて、1冊だけ借りてきてしまったのだ。
G・パスカル・ザカリー 『闘うプログラマー ビル・ゲイツの野望を担った男達』(山岡洋一・訳、日経BP社、2009)というノンフィクション。
特にこれを読もうと思って借りたわけではなくて、せっかく来たのだから、何も借りないで帰るのはさびしいなと思って、適当にうろうろしてたら目についたというだけの本である。
しかし、初めの方を読んでみたら興味深く、寝床の中で読んでたら第1章は読み終えてしまった。
これは読み通してもいいなと思える本なので、何とか読んでしまいたい。『渇き』 を読むのは先延ばしにしようかなと思っている。借りてきた方は返却期限があるのだから優先せざるを得まい。