結城昌治の偏食

2019年とあるから、4年前だ。

 

4年前の今日、アメブロにこんなことを書いてアップしてた。

 

ここに再録してみる (下のタイトルをクリックすればアメブロに飛ぶはず)。

 

 

am

 

* 追記: 項目を新たにして書くほどのことでもないし、読書関連なので、ここに追記しておくが、今日 (7月7日)、15年前くらいに書いて Ameba にアップした下の記事にコメントがあった。

 

ameblo.jp

 

15年も前にアップしたものとはいえ、時事ネタのようなものではないから、検索でヒットすることもあるのだろう。

 

書名の楽しみ

書物は読まなくても楽しめる。

 

読むだけがいわゆる 読書 なるものではない。

 

異論はあるかもしれないが。

 

たとえば Gutenberg で Rebilius Cruso という作品名を見た。

 

何かといえば、『ロビンソン・クルーソー』 すなわち Daniel Defoe の書いた、有名な Robinson Crusoe という小説の ラテン語訳である。

 

ラテン語で書かれた古典が英訳されることはあるが、その逆というのは面白い。

 

 

シェークスピアの作品名にも着目してみたり。

 

シェークスピアThe Rape of Lucrece というタイトルの作品がある。

 

不倫ならともかく、レイプ って ・・・ それ、犯罪ですよ!

 

劇作品ではなくて物語詩だ。

 

紀元前のローマ。王の息子が、家臣の妻ルークリースを凌辱し、ルークリースは自殺。それが市民の反乱を引き起こして王族が追放され、共和制が成立。その話をネタにしているらしい。

 

ベニスの商人』 とか『ロメオとジュリエット』 とか、タイトルだけは知ってる人は珍しくなくても、大半の人は聞いたこともないような作品について知ってたら、ちょっと鼻が高くならない?

 

* タイトルに注目して話のネタにしてみると、いかにも蘊蓄があるかのように錯覚させる効果があるかも。

 

面白いタイトル

内容はまるで知らないが、タイトルが面白いので興味を抱くということがある。

 

さっき、こんなタイトルを見た:

 

 Thrice wedded, but only once a wife

 

直訳すれば 「結婚3回、妻になったこと1回だけ」 みたいな?

 

タイトルというより文みたいな ・・・

 

小説である。

作者は Mrs. Georgie Sheldon という米国人女性 (1843–1926)。

 

Gutenberg に収録されている (Thrice wedded, but only once a wife)。

 

大飯食らい

杉浦日向子お江戸暮らし』(ちくま文庫、2022)を読んでたら、かつての江戸では、「成人男子の1食分の米は二合半が基準で、巷に五合飯、一升飯などザラであり」という文があった。昔の人は大食らいだったみたいだな。

 

知ってても得するかどうかは分からないが、"イレズミ" についての話のところで「彫物ほりもの)、文身(ぶんしん)、入れぼくろ」と言うのが正しくて、「入墨(いれずみ)」とは言わない、とある。「入れ墨」は受刑者のしるしだから、趣味で入れる「刺青(ほりもの)」とは別なのだそうだ。

 

この人は、なかなか面白いことを言う。たとえば、「道楽の本質」は、「何の役にも立たない楽しみに命懸けになる大馬鹿さにある」なんぞとおっしゃる。

 

最近のわが読書

きちんと書こうと意識したら、まるで書けない。

 

日記風に。

 

長山靖生文豪と食』(中公文庫、2019)を読了して、今読んでるのは杉浦日向子お江戸暮らし』(ちくま文庫、2022)。

 

 

延長

G・パスカル・ザカリー『闘うプログラマー ビル・ゲイツの野望を担った男達』(山岡洋一・訳、日経BP社、2009)は、2週間では読み通せなかった。市の図書館のサイトに行って、貸出延長手続きをした。

 

読み始めたら、これは途中で放棄できないな、と思える。とにかく読み通すしかない。そういう本だ。

 

マイクロソフトWindows NT を作り上げて製品として出荷するまでに、多くの人たちが関わって仕事をしていた。そのあれこれの人々についてのエピソードなどをまとめたものだが、すごいと思った。

 

書き手がすごいと思うが、この本を訳した人も見事だと思う。自然な日本語で読めるのはありがたいし、その技量にも敬服する。

 

 

 

 

 

久しぶりに本を借りた

T・ジェファーソン・パーカーという米国の女性作家の 『渇き』 という小説を読んでいた (渋谷比佐子・訳、講談社文庫、1998)。

 

女性作家だからでもあるまいが、リアリティーを出すためか、描写などが細かい。それはそれで、よく描けていると思う。

 

初めて見る翻訳家の名前だが、安心して読める翻訳だ。

 

主人公にあたるジョンが子どもの頃のエピソードが出てくる。そんなことは、話の流れとは関係ないように思えるし、なくても構わないような気がするのだが、とにかく出てくる。

 

両親の乗った小型機(2人乗り)を見送ったジョンは、叔父と叔母のところにいた。

 

夜、叔父が電話を受ける。それからかなり日々が経過し、ある日、ジョンは叔父に連れられて、遺体安置所に遺体確認に行く。

 

乱気流のために山中に墜落したのかもしれない。発見が遅くなったので、遺体の損傷が激しく、叔父は当人かどうか断言できないと言って出てくる。

 

ジョンは、自分に確認させてくれと言うが、担当官は、そんな子どもでは無理だと言うが、保安官が認める。

 

遺体は、確かに確認ができないような状態だった。ジョンは保安官に、あの遺体は自分の両親ではないと断言する。

 

保安官は、そうか、と言って何枚かの書類に署名させる。その後で、その遺体から回収された指輪と、ジョンが母親が飛行機に乗り込む直前に渡した手製のお守りを取り出して、それをジョンに手渡す。

 

保安官には、分かっていたのだ。しかし、君の両親の遺体だとはひとことも言わない。

 

そんなエピソードが出てくるのだが、小説の進行とは関係のない話に思える。

 

それでも、そういう話を挟み込んでおきたくなったのだろう。たとえば芥川龍之介の短編だったしてもおかしくないような、そんなエピソードのように思える。

 

 

などということを書くと、熱心に読んでいるかのようであるが、実は、いま一時中断して別な本を読み始めている。

 

天気がいいので久しぶりに市の図書館に足を伸ばしてみて、1冊だけ借りてきてしまったのだ。

 

G・パスカル・ザカリー 『闘うプログラマー ビル・ゲイツの野望を担った男達』(山岡洋一・訳、日経BP社、2009)というノンフィクション。

 

特にこれを読もうと思って借りたわけではなくて、せっかく来たのだから、何も借りないで帰るのはさびしいなと思って、適当にうろうろしてたら目についたというだけの本である。

 

しかし、初めの方を読んでみたら興味深く、寝床の中で読んでたら第1章は読み終えてしまった。

 

これは読み通してもいいなと思える本なので、何とか読んでしまいたい。『渇き』 を読むのは先延ばしにしようかなと思っている。借りてきた方は返却期限があるのだから優先せざるを得まい。