日本語について考えてみたり

 おれは本を読んでも、読んだとたんに忘れてしまうし、ひどいときには作者の名前も、本のタイトルも覚えていないくらいだ

 -- 紀蔚然 (キ・ウツゼン) 『台北プライベートアイ』(舩山むつみ・訳、文藝春秋、2021

 

そんなわけで、最近読んだ (読み終えた) 本の書名くらいは記録しておこうか。

 

 加賀野井秀一 『日本語を叱る!』 (ちくま新書、2006)

 [李漁] 『完訳 肉蒲団』 (伏見沖敬・訳、平凡社ライブラリー、2010)

 武田砂鉄 『わかりやすさの罪』 (朝日新聞出版、2020)

 

「記録」 としては、別にファイルを作って記録してはいるが、こういうブログを書いてるのだから、公開してもよかろう。

 

で、先日、市の図書館をうろついてたら、今野真二 『うつりゆく日本語をよむ』 (岩波新書、2021) というのを見て借りてきた。

 

著者名に何だか見覚えがある気がして、わが読了本の記録を見たら、つい先日 『超明解! 国語辞典』 という文春新書を読んでいた。

 

あれは、組み方などからして読みにくくて分かりにくい気がしたのだが、こちらの岩波新書の方は、あれに比べると読みやすいし、そのせいか、文意を追って読むのもさほどむずかしくは感じない。

 

半分くらいは読んだから、あと半分。

 

加賀野井秀一 『日本語を叱る!』 はかなり明解だったが、こちらはちょっと視点が異なるかもしれない。

 

けれど、重なり合う面もある。それに加えて武田砂鉄 『わかりやすさの罪』 である。

 

それぞれが違うようで、どこか通底する面があるような気がしてしまう。

 

「わかりやすさ」 を狙っているようで、実は 『わかりやすさの罪』 で指摘されたような誘導がなされている疑いがあったりする。

 

それは、どれだけ意図されたものか分からない。『日本語を叱る!』 で指摘されたように、日本語という言語の構造が影響しているかもしれないし、『うつりゆく日本語をよむ』 の副題が 「日本語が壊れる前に」 であるように、日本語そのものが自己崩壊に向っているのかもしれない。

 

今野は言語を 「器」 だとする。思想も思考も、その器に盛ることで具体的な形を持つようになる。

 

ところが、その器の形そのものが崩れてくると、その中身までもが歪 (いびつ) なものになりかねない。

 

ちょっと怖いことだ。

 

 

 

 

 

* そうそう、前々回に末尾に追加して記した 神永曉 『悩ましい国語辞典』 (角川ソフィア文庫、2019) のことだけど、見つかった。何と、購入した書店が付けてくれたカバーを付けた状態のままだったので、書名も何も見えなかったのだ。面白い読み物ではあるが、ネットで公開されているものでもある。『さらに悩ましい国語辞典』 (角川ソフィア文庫) も出ているが、図書館には単行本があった。買うべきかどうか、「悩ましい」 ところだ。たぶん、しばらくは放置かも。