わかりやすさで叱られて

意味不明なタイトルをつけてみた。

 

書こう書こうと思ってても、つい面倒になる。もう、内容など支離滅裂でもいいから、とにかく書き始めてしまうこと、そんな書き方しかできない私である。

 

最近読み終えた本:

 

 ・加賀野井秀一 『日本語を叱る!』 (ちくま新書、2006)

 ・伏見沖敬・訳 『完訳 肉蒲団』 (平凡社ライブラリ、2010)

 

読んでる時にはいろいろ考えたりしてるはずなのだが、読み終えてしまい、また別の本を読み始めていたりすると、その時に考えたり感じたりしてたことなど、じきに分からなくなる。

 

ま、私の場合は、それはそれで構わないのだけれど。

 

だって、読んだ内容がすっかり頭の中に入るというわけでなし、どうせ忘れてしまうんだもの。読んでるという感覚を楽しんでるといったのが、私の 読書 なので、あまり ためになる 読書というものではない。

 

それはそうとして、『日本語を叱る!』 は、なかなか ためになった という気がする。

 

タイトルはふざけているように見えるが、中身はまともなもの。日本語の特性を明瞭に示してくれる。

 

膠着語という特性が、外来の言葉を何でも取り込む傾向を生んだ。漢語しかりカタカナ語しかり。いや、もっと広い意味においても。

 

実例を示されると、なるほどと思う。本当には分かってないくせに、何となく分かったような気がするだけで使っている単語や表現なんて、いくらでもある。

 

そのことに気づかせてくれたというだけでも、一読した価値はあったように思う。

 

 

『肉蒲団』 の方は、中国清代に書かれた小説で、作者は不明だが、おそらく李漁 (リギョ) という人の作なのではあるまいかと言われる。

 

内容は、まぁ、好色小説といえばそうだ。ただ、主人公は最後は仏門に帰依するのである。

 

タイトルに 「完訳」 とあるが、実際には本文を忠実に和訳したものではなさそうだ。おそらく全体を訳してはいるが、部分描写などは簡略化したりなどしているのではないかと思われる。それはそれで問題ないとは思うけれど。

 

こちらは微に入り細を穿つような描写を期待しているわけではないから。いや、なかなか面白い訳になってると思う。

 

いちいち示さないが、原文の漢字表記に日本語を当てたものもあるし、漢字のままなのもあるし、しかしいずれも意味は推測に頼らざるを得なかったりする。

 

下手に伏字にするより、その方が面白い。

 

 

もう少しきちんと書くつもりだったが、今は別な本を読んでるので、いい加減な書き方になる。

 

今回の私のブログ記事タイトルは、1つには 『日本語を叱る!』 に由来するのだが、「わかりやすさ」 の方は、現在読んでいる武田砂鉄 『わかりやすさの罪』 (朝日新聞出版、2020) からもってきた。我ながらわけの分からんタイトルだなぁと思う。

 

他人が何を考えているのか、頭の中をのぞくわけにはいかないので分からない。そもそも、自分が何を考えているのやら、それだって確かではないのだから。それなら、あまり身構えても仕方がない。とにかく書いてみる。そこから始まるのではないか。そんな気持ちである。