読んだ本

・・・ ではないのだが、柴田錬三郎の「平家部落の亡霊」を読んだ。

 

剣豪が出てくるわけではなくて、現代ものである。

 

ミステリ・ドラマを見ているような感じ。

 

舞台は飛騨の山中。

 

 

時間切れで読み終えられず、そのまま図書館に返却と相成っている今日この頃の私であるが、小説なら、長編でなければ、個々の作品を読んで、「いくつかの作品だけは読み終えた」ということにはなる。

 

ちくま文庫『第8監房』には8つの短編がおさめられているから、ぼちぼち読んでも、いくつかは読み終えられるかもしれない。

 

さて、雨もよいの今宵は、早めに寝床に入って、「盲目殺人事件」の続きを読むことにしよう。

 

 

 

 

今から16年前の今日に

さっき、アメーバ・ブログのアクセス解析を見たら、今から16年前の今日、ブログに書いたものに3アクセスあったと出ていた。

 

何かの検索に引っかかったのだろうか、そんな前に書いたものにアクセスがあるとは。

 

池田満寿夫の若い頃の書簡を収めた本のことを書いたものだ。なつかしい。

 

タイトルは「蔵書公開 池田満寿夫『日付のある自画像」である。

 

まさか "エイプリル・フール" ってことはあるまい。

 

 

柴田錬三郎「平家屋敷の亡霊」という短編を読み始めている。

 

中に、アフォリズム風の、こんな文があった:

 

 他人の不幸に対して、残忍な快感をおぼえるのが、隣人の常である。

 

尾川周明 獄中日記を読む

本当は「読んだ」である。

 

昭和11年の6月16日から昭和12年の10月12日の範囲に及ぶ大川周明の「獄中」日記。

 

10月13日以降のものは収録されていない。

 

なぜなら、昭和12年10月13日に仮出所したので、もはや「獄中」ではなくなったからだ。

 

出所の少し前、10月8日の記述に「スペイン植民史を了す」とある。

 

スペイン植民史については、9月13日の記述に「来週より約三週間の予定でスペイン植民史起稿。すなわち十月十七日に了る予定」とある。

 

何日で書き上げるという細かい予定まで立てていたのだ。

 

それが、何と10月8日には書き終えてしまったというのだからすごい。

 

彼が書いていた植民史の著作の最後がスペインを扱った部分だったのだ。

 

ノート40冊にものぼる原稿は、出所後に『近世欧羅巴植民史』として出版されることになる。

 

 

 

この本の前半は「獄中」日記だが、後半は「米英東亜侵略史」で、昭和16年12月14日から19日にかけて、大川がNHKラジオで放送した内容を冊子にしたもの。

 

 

本を返却するまで残り2日なので、読み通せない可能性もある。

 

せっかく前半は目を通したのに、「読了」はせずに返却となれば、エディタで記している読書記録に記録できない。残念なので、これまでやったことはないが、「前半読了」などという注記を付して記録することにしようかな。

 

読書人 大川周明

大川周明の名は、高校の日本史の授業で初めて知った。

 

A級戦犯となるも、東京裁判東条英機の頭をポカリとやったりして、正常な精神状態の者ではないと判断されて釈放されたが、後にコーランを全訳したりなどしたのだから、本当におかしかったのかどうか疑わしいのだが、などという教師の話だけは記憶に残っている。

 

彼は五・一五事件連座して市ヶ谷の刑務所に収監されたのだが、昭和11年と12年の「獄中日記」なるものを収めた本を読んでいる。

 

それを読むと、大川が教養人、インテリであったことがよく分かる。

 

昭和11年7月27日の日記に日課の時間割を記しているのだが、それによると起床が5時で就寝が8時である。

 

その中に読書時間を割り振っていて、その中に「読書」の時間があり、

 

 八時より十一時まで読書。・・・ 二時より五時まで読書。

 

とある。また、翌28日の記述には

 

 読書はフランス語と碧巌録。

 

とある (大川は日記中にフランス語や英語による記述をするほどだから、語学にも堪能だったのだろう)。

 

8月1日には「可笑記 (万治2年刊行)」からの引用を書きつけているし、どの箇所だったか分からなくなったが、差し入れかと思われrがモンテーニュを読んでいたりする (原文で読んでいたのかもしれない)。

 

以上、読んだ範囲においてだが、読書関連としてメモしておく。

 

それはともかく、読書時間が日に3時間づつ2度にわたっている。つまり、1日に6時間は読書をしているわけだ。さすがだと関心する。私など、今は、寝床に入ってからの10分くらいだったりするから、まるで本を読めなくなった。でも、今はそういう時期なのかもしれない。読み終えればいいという読み方でなく、内容を理解しようという姿勢で読むように変わったと思う。(年のせい?)

 

 

 

 

 

* 私がメインにしているブログの方にも、大川周明関連で [大川周明の北一輝評 と題した抜き書きを書いてみた ("書いた" とはいっても、書いたのは大川周明であるけれども)。

 

お久しぶり~ね~♪

いやぁ、書かないでいると本当に書けなくなるものだな。

 

何でもいいから書いていけばいいとは思っても、材料がない。

 

読書に特化したブログに日記を書いても意味がないわけだから、読んだという実績がなければ書きようがないのも事実。

 

先日はラーフル・ライナガラム・マサラ!』というインド人の書いた小説を読んでたんだが、図書館の貸し出し期限を延長しても読み通せなかった。

 

「悪漢小説」というジャンルがあるが、まさにそれかもしれないと思った (タイトルだけ知ってても読んだことはないが、フィールディングの『トム・ジョーンズ』が、悪漢小説の代名詞みたいに書かれてるのを見たことがある気がする)。

 

半分くらいまでは読んだのに、そこで諦めざるを得なかったのは、ちとくやしい。機会があれば、続きを読んでみたい。

 

 

このところ読んでいるのは

 

 ミチコ・カクタニ 『エクス・リブリス』(橘明美・訳、集英社、2023)

 

という本。

 

やっぱり寝床読書なので、ちょっとづつしか進めない。

 

著者が読んで注目した本の紹介みたいなもの。

 

"批評" ではない。

 

 

 

 

最近読み終えた本

今に始まったことではないが、ものぐさなもので、せっかく読み終えた本があっても、読書記録に記載するのを忘れていたりする。

 

記載漏れ ・・・ だな。(笑)

 

そんなありさまなので、書名だけにしておく。

 

 橋川文三幕末明治人物誌』(中公文庫, 2017

 ベンジャミン・フルフォード&ウマヅラビデオ『世界を操る闇の支配者 -- 米露中の覇権バトルと黒幕の正体』(宝島社、2022

 

前者はともかく、後者の方は、いわゆる "陰謀論" の類じゃないか、と思われるかもしれないが、それでも常識とは違う角度から世界を眺めてみるのも悪くはなかろう。

 

そして現在寝床読書の材料になってるのが、ラーフ・ライナ『ガラム・マサラ』(文藝春秋、2023)という小説。

 

変なタイトルだが、インドの作家の書いたもの。

 

読み始めた時には、「あ、こりゃ失敗した。こんなもの、とても読めるしろものじゃないな」と思ったものの、少し読み進んでいくと、なかなか面白い。

 

原文は英語だそうだが、饒舌体というか、日本語で読むのは楽じゃないが、おそらく原文はなかなかのものなのだろう。

 

ただ、あと数日のうちに返却せねばならないのだが、それまでにはとても読み通せそうにない。さて ・・・

 

未読了

去年もそうだった気がするが、年末に借りた本を、結局は読み終えることが出来なかった。

 

しかも、借りて2週間後にネットで延長の手続きをしていたので、合わせて4週間くらいあったのに、それでも読み通せなかった。

 

遅読もいいところだ。

 

だって、寝床の中で、眠くなるまで読んでるだけなので、あっさりと眠くなってしまったりもする。

 

自分の買った本であれば、マイペースで読めるのだが、それにしても、これほど遅くては、読書をしてるなんて言って威張れそうにない (別に威張る必要もないのだが)。

 

横田順彌『平成古本奇談』(ちくま文庫、2022) だけは読み終えたが、ロバート・キャンベル他・編の『東京百年物語2』(岩波文庫、2018) は途中まで読んだだけで返却せねばならなくなった。

 

残り100ページもないくらいなのだが ・・・

 

ま、」仕方がない。

 

アンソロジーなのだが、印象に残るのはフィクションの方だろう。他の人にどういう内奥なのかを語りやすいから。

 

たとえば谷崎潤一郎「人面疽」は、ミステリーじみているし、薄気味悪さがある。しかも、最後まで謎の解明はなされないままで終わる。

 

芥川竜之介「魔術」は、いかにもという作品なのだが、作者名がなぜか龍之介ではなくて竜之介になっている。

 

梶井基次郎「泥濘」は、語り手の意識の流れを描写しているような作品だといえなくもない。

 

そして、堀辰雄「水族館」は、堀辰雄といえば「風立ちぬ」のような作品があるわけで、いくらかそういうイメージを抱いていたが、その作品では浅草で踊り子をやっている若い女が登場し、その若い女と昵懇であるように見えた若い男が、実は男装した女性で、関係のもつれからか、舞台の上の踊り子にピストルを発射して逃げるも、建物の屋根の上から墜落するのである。

 

踊り子といえば、永井荷風の「踊子」を読んだことがあるな、という記憶が蘇った。作品としては荷風の方が骨組みがしっかりしているかもしれないが ・・・

 

それから伊藤整の小説にかかったところで、時間切れが近くなった。伊藤整は例の「チャタレイ裁判」くらいしか知らないのだが、作家であったことも知ってはいた。しかし、作品を読んだことはないので、これが初めてになるはずだった。今夜のうちに読み通せるだろうか。かっこの中の文は、語り手の意識の内容のようだ。それが客観的な描写の文の中に入り込んでいる。面白い趣向といえなくもない。