敗北者の思想

最近はヘルニアもかなり良くなってきたので、そろそろ図書館に出かけて本でも借りて来ようかと思ってみた矢先、県内ではオミクロン感染者が無視できない数にのぼり、重点措置法だったかの適用を受ける始末。

 

今回は、まだ図書館は休館措置を取っていないようだけど、いつ以前のように閉館状態が続くことにならないとも限らない。

 

行くなら今のうちかなぁ。足を引きずって、体を左右に揺らしながら (右足を庇うために、変な歩き方になるのです)、体を前のめりにして (こうすると痛みを感じにくい)、そんな状態で街中を歩いて図書館までたどりついて、本を借りるべきか (とはいえ、今はそれほど極端な歩き方をしなくてもいいほどに回復はしているのだが、完全に元通りとはいえない。まだ、いくらかの痛みは感じる)。

 

まぁ、手持ちの本の再読も無意味ではない。

 

先日読み終えた白川静孔子伝』 (中公文庫、2003 [1991) など、1度通読したくらいでは頭に入らない本だ。

 

とはいえ、これが少なくとも2回目の通読 (前はいつ読んだのだっけ)。

 

とにかく漢字の多い本だ。といっても、固有名詞などが漢字で表記されてるから (古代中国だから当然だけど)、それが読めないことが多くて、おまけに古代中国の地理や歴史を知らないから、すんなりと頭に入って来ない。

 

孔子は巫祝の世界から出た人らしい。それを頭に置いておかないと、「礼」 を重んじた孔子を理解できないのだろう。

 

読んでいて思ったのが、「あ、おれはそもそも 『論語』 を通読したことさえなかったなぁ」 ということ。

 

そんな者が、この本を読んで、どれほどの理解をすることが出来るだろう。

 

にもかかわらず、2回目だか3回目の通読である、少しは雰囲気だけでも味わえたかもしれない。

 

論語』 という書物は、孔子の語った語を、そのまま記した書物ではないらしい。

 

孔子没後に、弟子たちや、派生したいくつかの流派みたいな者たちの作為も加わったもの。

 

また、孔子の思想のまっとうな後継者は、意外にも 荘周 つまり 荘子 かもしれないということ。

 

それから、戦後の価値観の崩壊した時期に白川静の手元に置かれていたのは『論語』 に加えて 『聖書』 だっというのも意外。

 

それだけでなく、白川静によれば、『論語』 も 『聖書』 も、「敗北者の思想」 だという。

 

それってニーチェの言い方みたいだな、と思った。

 

改めて、もう少し丁寧に読んでみなければ分からない本ではある。

 

 

その後、寝床で読む材料にしているのが 柳瀬尚紀 『辞書はジョイスフル』 (新潮文庫、1996) だ。

 

これは、ある意味、やはり読みにくい。といって、読めないことはないのだが、とにかく細かい。

 

ここまで細部に拘るのが プロ というものかもしれないが。

 

しかし、寝床で読んで 催眠剤 の代用とするには、これくらいが適当かもしれない。

 

本気で読むならば、だが。