つげ義春の日記

まだ、つげ義春の 『つげ義春日記』(講談社文芸文庫、2020) を読んでいる。

 

日記なのだから、さっさと読めそうでいて、なかなかだ。

 

まさか2週間近くかかっても読み終えられないとは想定外であった。

 

今日明日で、何とか通読を終わらせるつもり。

 

だって、図書館に返却しなければならないのだから。

 

寝床の中でちょいとづつ読んできたが、そんな調子では進めないのも仕方ないかもしれない。

 

私の 「読書」 は、大概、寝転んで読むか布団の中で読むか、そんなものだ。

 

 

横尾忠則の 「夢日記」 について、批判的な見解が述べられている部分があって、そこを引用しようかなと思ってたが、いまパラパラと見てもその箇所を見つけられない。

 

要は、夢の日記なら、夢の描写だけに重点を置けばよくて、その夢を見た背景説明などは余計だ、ということを述べていると私は理解した。

 

それで思い合わされるのが、つげ義春も 「夢日記」 を書いてることだ (たぶん、『つげ義春日記』 に収録されていたのではないかと思う)。

 

横尾忠則夢日記を読んだ時より前なのか後なのか、それを調べてみたい気がしたが、ここに書くのには間に合わない。

 

横尾忠則の 「夢日記」 は読んだことがないが、つげ義春のそれは読んだことがある。

 

なかなかシュールで、いくつか挿絵も入ってた。

 

それも図書館で借りた本だったから、いま参照することができない。

 

夢に背景説明を加えるというのは、フロイトの 『夢判断』 とかみたいなのを想像すればいいんだろうか。

 

つげ義春にとって、表現者は表現したものがすべてで、それを作者が解説する必要はないという考えだろう。

 

夢の日記であったとしても、夢はそれ自体が表現の1つだとみなしているのだと思われる。

 

 

この日記の中でつげ義春は、自分は文章を書くのは苦手だということを何度か書き付けている。

 

けれど、漫画家であるとはいえ、彼の漫画は彼の表現だし、表現するということにおいては、彼の書いたものも表現だ。

 

だから、やはり独特なものがある。

 

 

これから寝床に入って、読まねばならない。

 

面白いといったら見当違いだと言われるだろうが、作り物でなく、記録である。

 

おそらくは公開することを前提に書かれたものであろうが、個人の生活をそのまま公開してしまっているような、そんな日記だ。

 

それでいて、そこいらの人間が書いたものとは違う。

 

まぁ、ここでは内容に触れまい。

 

 

 

 

つげ義春とぼく

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新版 つげ義春とぼく(新潮文庫)

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