F・シーラッハの 『刑罰』 を読了す

フェルディナント・フォン・シーラッハの 『刑罰』 (東京創元社、2019) を読了。

 

最後の 「友人」 の最後に書かれているコメントは、作者自身のコメントのような気もする。

 

刑事弁護士として20年を経て、そして作家となった者の所感:

 

 それぞれの決まりごとは少し違うものだが、疎外感は残り続ける。そして孤独感やさまざまな思いも。

 

 刑事弁護士として被告を弁護してきた経験は積んで、犯罪者の罪は法律で裁かれたり、弁護の力で無罪になったり罪が軽くなっても、その犯罪の背後にあるものを考えると、それで気が晴れやしないという思いがあるのかもしれない。

 

 

 本書を読んでいて、誤植と思われるようなところは一か所も見当たらなかった。訳文も自然で読みやすい。

 

ただ、「湖畔邸」 で

 

 イスタンブールの貸家を解約し、

 

とある部分に、ちょっと引っかかるものを感じた。

 

「貸家」 ではなくて 「借家」 とするのが適当なのではあるまいか、と。

 

だって、その家は自分の持ち家ではない。他人に貸していたわけでもない。

 

それなら 「借家」 ではなかろうか。「借家」 だから、その賃貸借契約を 「解約」 もするわけだ。

 

自分の持ち家を他人に貸していたが、何らかの事情で賃借人に出ていってもらう場合には 「解約」 ではなくて 「(契約を) 解除する」 ということならあるかもしれないけれど。

 

あら捜しのようだが、別な箇所も指摘するなら、最後の 「友人」 の中の

 

 死にたくなかったら、薬物依存症の治療をするべきだ。

 

という文にも引っかかるものを覚えた。

 

「治療をする」 のは 「治療」 の専門家のはずだ。

 

患者が 「治療」 をするのではない。患者は 「治療を受ける」 立場のはずである。

 

 

その少し先に

 

 リヒャルトの母親が人生の大部分を精神科病院で過ごしたと知ったのは

 

とあるが、「精神科病院」 よりも 「精神病院」 というのが普通ではなかろうか。