ニーチェと親鸞

氷川英廣 『ニーチェの顔』 (岩波文庫) の中の 「ニーチェにおけるヘーゲル像」 という文章の中にニーチェの 『偶像の黄昏』 からの引用が示されているのだが、その引用からさらにつまみ食い的に写してみる、

 

 悪徳といわれようと、美徳といわれようと、 ... もはや何ひとつ禁じられたもののない人間 ・・・ そのような自由となった精神は、 ... 全体としては一切が救済され、肯定されるのだという信仰を抱きながら云々

 

これはゲーテに言及した部分だという。

 

この部分を呼んだ時、「まるで親鸞の信心のようではないか」 と思った。

 

悪人正機というのも、つまりはそういうことではあるまいか。