人語 犬語

ヘルニアは、いくらかましになったが、外を歩くのはつらい。

苦痛をこらえながら図書館まで行くなんてことはしたくないから、今のところ新しく借りて読んでるものはない。

 

前に書いたヨハン・ベックマン 『西洋事物起原 (二)』 (岩波文庫、1999) は、いちおう通読。というか、各ページをめくって目を通したという程度。

 

それで、次は、スタンレー・コレン 『犬語の話し方』 (文春文庫、2002) をぼちぼちと、就寝前に寝床で読んでいる。

 

これも Book-Off で仕入れてあった本で、¥108 というシールが貼られているから、かなり以前に買ったもの。少し読んだまま積読状態にあった本。

 

これを読んだからどうだということはないのだが、まぁ、それなりに興味深いところはある。

 

犬語の辞典みたいな要素もあるが、著者の個人的な体験なんかも入っていて、読み物としても読める。

 

昔は、犬を飼ってたこともあるから、あの頃にこの本を読んでたらなぁと思わぬでもない。

 

小説やエッセーの類ではないが、それでも訳文が見事に日本語であるのに感心する。こういう翻訳ができるのは、まさしくプロだ。著者は犬語を人語にし、その英語の人語を、訳者は見事に日本語にしている。

 

過去の読了書記録から (4) - 2004年7月~12月

前回から間が空いたので、ちょっと要領を得ないところがある。

 

リストを示すだけなのだが、元のソースの表示に手を加えなければならないのが、やや面倒。

 

 

2004/07/03 Dean Koontz Ticktock (Headline Book Publishing、1997)
2004/07/08 アイリス・マードック ジャクソンのジレンマ (彩流社、2002)

2004/07/10 人間おもしろ研究会[編] 天才の謎と秘密

2004/07/12 アンドレーア・ケルバーケル 小さな本の数奇な運命 (晶文社、2004)

2004/07/19 丸山圭三郎 言葉と無意識 (講談社新書)

2004/08/01 Anne Rice Blackwood Farm (The Random House、2003)

2004/08/03 ジェフリー・アーチャー 獄中記 - 地獄篇 (アーティストハウス、2003)

2004/08/09 ウイリアム・ギブスン パターン・レコグニション (角川書店、2004)
2004/08/10 吉村昭 ポーツマスの旗 (新潮文庫
2004/08/12 Agatha Christie The ABC Murders (HarperCollinsPublishers、2001)

2004/08/18 Dewey Gram The Life of David Gale (An Onyx Book [Penguin Putnam]、2003)

2004/08/26 Terry Kay To Dance with the White Dog (Washington Square Press of POCKET BOOKS [a division of Simon & Shuster Inc.]、2002)

2004/08/20 根本美作子 眠りと文学 (中央公論新社、2004)

2004/08/28 正高信男 天才はなぜ生まれるか (ちくま新書、2004)

2004/09/01 Nick Hornby About a Boy (Penguin Books、2002)
2004/09/02 白川静 孔子

2004/09/05 ダン・ファンテ 天使はポケットに何も持っていない (河出書房新社、2004)
2004/09/16 Nick Hornby High Fidelity (Penguin Books、2000)

2004/09/19 中村健之介 永遠のドストエフスキー (中央公論新社、2004)

2004/09/25 勝谷誠彦 イラク生残記 (講談社、2004)
2004/09/29 Agatha Christie And Then There Were None (HarperCollins、2003)

2004/10/01 中島らも アマニタ・パンセリナ (集英社、1995)

2004/10/05 E.Hinton The Outsiders (Penguin Putnam、2003)

2004/10/16 青井汎 宮崎アニメの暗号 (新潮新書、2004)

2004/10/21 Elmore Leonard The Big Bounce (HarperTorch、2003)

2004/10/25 マーク・トウェイン まぬけのウィルソンと かの異形の双生児  (彩流社 [マーク・トウェイン コレクション 1]、1994)
2004/10/29 ジョアオ・マゲイジョ 光速より速い光 (NHK出版、2003)

2004/11/21 Philip K. Dick Paycheck (Gollancz、2003)

2004/11/24 ローレン・スレイター わたしの国にようこそ -- 精神分裂症患者の心理世界 (早川書房、1996)

2004/12/02 ニール・ガーシェンフェルド 考える「もの」たち (毎日新聞社、2000)
2004/12/05 平野嘉彦 マゾッホという思想 (青土社、2004)

2004/12/10 藤広哲也 そこからパソコンがはじまった! -- 栄光と激動のコンピュータ1980年代史 (すばる舍、2004)

2004/12/10 夏目漱石 彼岸過迄 (角川文庫)

2004/12/18 河合隼雄 コンプレックス (岩波新書

 

 

よく読んでるなぁ。今では考えられない。

その当時にこのブログを書いてたら、いろいろと書けたかもしれないのだが。

記憶に残ってるものと残ってないものとがある。おそらく、むずかしい本の内容は、ほぼ忘れているだろう。

そもそも、書名を見ても、読んだことがある本だということを思い出さないくらいなものだ。

 

初めに出ている Tiktok は、これは面白かった。英語の読解力がおぼつかなくても、勢いで読んでしまった。また、そういう読み方がふさわしいような作品。

次のマードックの 『ジャクソンのジレンマ』 はマードック最後の長編。執筆当時の彼女はアルツハイマー病に冒されていた。それは別としても、読んでてまるで面白くなかった。

イリアム・ギブスンの翻訳は何冊か読んだ。サイバーパンクSFというのだったか何だったかの、それなりに面白いと思った作家だ。

Dewey Gramの The Life of David Gale は、読み終えて 「う~ん」 と唸ってしまうような作品。

 Terry Kay の To Dance with the White Dog は、たしか日本で映画化されたのではなかったろうか。心温まるという月並みな表現はしたくないが、いい作品だ。

Nick Hornby の About a Boy も、いい感じの作品。映画化されたんだったかどうだったか、記憶が曖昧だけれど。

ダン・ファンテの作品は、初めて読んで、そしてイカれた。どこかブコースキーを思わせるし、訳者もブコースキーの作品を訳している中川なんとかという人だったが、作者はそういうふうに結び付けられるのは本意ではないみたい。もっとダン・ファンテの作品を読みたくなったが、図書館には他に彼の作品がなかった。

Nick Hornby の作品は、図書館に置いてあったものはみんな目を通したが、High Fidelity だけはあまり面白く感じなかった。

中島らもの 『アマニタ・パンセリナ』 は薬物の話が出てくる作品。さすが中島らもの書いたものだけあって、面白かった。

 

最近は図書館に行ってないので、本を借りてくることが出来ず、従って いいかげん読み すら出来ずにいる。

ひとつには、ヘルニアになって、足が痛くて歩けないという状態にあることもある。

仕方がないから手持ちの本を読んでるが、最近は以前 Book-Off で買ったヨハン・ベックマン 『西洋事物起源 (二)』 を、就寝時に寝床で読んでいる。特に面白いわけでもないし、カタカナの名前がやたらと出てくる (そのあたりは読み飛ばしてる) のだが、まぁ、気長に読んでみようとはしている。それこそ、内容はまるで頭に入らないのではあるけれど。

 

或る噺家の一代記

毎晩寝床でちょいとづつ読んでいたが、とうとう読み終えてしまった。

 

5代目古今亭志ん生の 『びんぼう自慢』 (ちくま文庫、2018 [2005]) である。

 

同じちくま文庫に入っている 『なめくじ艦隊』 は過去に読んだことがあり、話としては重なり合ったりもするが、こちらはこちらで楽しんで読めた。

 

語り口を活かした書き方にしてあるのもいい。

 

今さら内容について云々する気はないが、いまパッと開いたら、こんな文が目に入ったので、引用してみよう (文の一部だけだ)。

 

 思惑だの褌なんてえものはえてして外れやすい。

 

こういうユーモアは、落語の中にも出てきそうだ。

 

 

 

 

 

公園

私は別なところにもブログを書いていて、一応は書いてみたものの、アップしようかどうしようかと迷って、結局アップしないことにした文章があるのだが、本に関連する内容だから、こちらの方にアップしてみる。

 

   *   *   *

 

永井荷風・作 「踊子」 に

 

 日曜なんぞは朝の九時から夜の十時まで同じ事を四、五回やるのが公園の例ですから

 

という一節がある。

 

この 「公園」 はどう考えても 「公演」 だろう。

 

岩波文庫版 (2019) からの引用である。2010年の 『荷風全集』 を底本にしているというのだから、「全集」 ではそうなっているのかもしれない。つまり、元がそういう表記だったのだろう (面白いことに、作中には本当に 「公園」 を表している箇所もある)。

 

しかし〔編集付記〕に、文字を改めただの何だのと書いてあるところを見ると、文庫本として、読者が読みやすいように表記に手を加えているようだ。それなのに、「公演」 が 「公園」 となっているのは、どんなもんだろう。オリジナルの表記にこだわるのなら、(漢字はさすがに昔のままでは読みにくいかもしれないけれど) 旧仮名遣いは残せばいい。仮名は書き換えて、漢字は字体を変えただけというのでは片手落ちではなかろうか。

 

   *   *   *

 

 

と考えたのだが、荷風の文章には、必ずしも今日の文字使いに合わない書き方をしている場合がある。

 

それなら、「公園」 の場合はどうかといえば、ひょっとしたら、その 「公園」 というのは、「公演」 のことというよりも、レビューなどを上演する建物のある場所のことを指しているとも考えられる。

 

「公園の例」 とは、その地区にある何々館だか何々ホールだかにおいては、そうするのが普通で、珍しいことではない、ということを述べているのかもしれない。

 

その文庫でも、そういう解釈に立って、「公園」 を 「公演」 とは改めなかったとも考えられる。

 

 

 

 

 

上の広告画像に、「作者:荷風、永井」 とあるが、どうも不自然に感じる。

 

なぜ素直に 「作者: 永井荷風」 としないのだろう。

 

たとえば欧米の作家や著作家の書名を表す際に、"James, Henry" のような表記がされることはある。普通は Henry James なのだが、リストなどで著者名順に並べてあるような場合に、ファミリー・ネームを出す場合だ。

 

その方式を永井荷風の場合に当てはめてローマ字書きにしても、Kafu Nagai が "Nagai, Kafu" になるだけである。それが、日本語表示であるのに、「荷風、永井」 とあるのは、いかにも変だと言わざるを得ない。

 

* なお、これは現時点での話で、広告主による修正がなされる可能性はある。

 

建物が主役の人間ドラマ

最近のわが読書。

 

カレル・チャペック白い病』 (阿部賢一・訳、岩波文庫、2020) に続いて、かなり時間を取った気がするが植松三十里 『帝国ホテル建築物語』 (PHP研究所、2019) を読了。現在は永井荷風浮沈・踊子 他三篇』 (岩波文庫、2019) を読みつつあるところ。

 

植松三十里なんて人は、名前も知らなければ、読んだのも初めて。

それに、建物の話なんぞ読んでもさして面白くもあるまいけれどと、大した期待もしないで借りてみただけの本だった。

 

それが、存外に面白かった。

まるで大河ドラマを見ているよう。

たしかに、この作品がドラマになってもおかしくない。

ただ、セットが大変だから、製作費が嵩む嫌いはあるかもしれないが。

 

ちらと思ったのが、プロローグやエピローグは、必要だったろうか、ということ。

とにかく中身がすごいのだから、それで押していってもよかったのではあるまいか、なんて思ってしまった。

 

 

 

 

最近のMy読書

夜眠る前に、寝床でちょっとづつ読んでるのは、以下の2冊。

 

 永井荷風 『浮沈・踊子 他三篇』 (岩波文庫、2019)

 植松三十里 『帝国ホテル建築物語』 (PHP研究所、2019)

 

上のものは、以前も借りてきて、少し読んだが、同時に借りてきた本の方が優先して、読み切れずに返却したことがある。

 

今回は読み切ろうと思って借りてきたのだが、下の本が、予想していた以上に興味深くて、ついそちらの方が優先してしまっているのが現状。

 

荷風の方は、今回も読み切れずに終わるかもしれないのだが、植松さんの本の方も、返却日までに読み終えられない可能性がある。

 

同じ本を改めて借りて、どちらか片方だけでも最後まで読み切りたいと思っていたのだが、市の図書館のホームページを見たら、こんなカレンダーが表示されていた。

 

f:id:bakanlibre:20210901223746p:plain

 

あちゃ、これでは 休館日 の連続だ。コロナのせいで、またも休館。

 

返却するだけなら出来るにしても、カウンターで、改めて借りるという手続きができない。

 

ネットで延長処理が出来なくもないみたいだから、その時になったら試してみるかな。

 

 

[追記]

 

忘れていた。3冊貸出を受けて、そのうちの1冊は読了してたのだった。その本は

 

 カレル・チャペック 『白い病』 (岩波文庫、2020)

 

死に至る病が蔓延するのだ。治療薬はない。

 

塀の中と墓の内

ミキータ・ブロットマン 『刑務所の読書クラブ』 (原書房、2017)、Tracy Chevalier: Falling Angels (Plume, 2002)、イヤミス傑作選 『あなたの不幸は蜜の味』 (PHP文庫、2019) と読み終えてきた。

 

今は、少し手持無沙汰な感じで、読みかけの本 (小説などではないから、通読する必要もない) をちょろちょろと読んだりしている程度。

 

ブロットマンの本は、著者が塀の中を垣間見た報告という面もある。「読書クラブ」 については、当初の期待どおりにはいかなかったのだから、失敗といってもいいかもしれない。その 「失敗」 の報告でもある。

 

「失敗」 だったからといって、得るものがなかったわけではない。実際、その本を書く材料は得られたわけだし。

 

それにしても、塀の中にいる人々を対象にした読書会なのに、選択された作品のリストを見るに、どういう基準に基づいたのかと、首をかしげたくなる。

 

 ジョゼフ・コンラッド 『闇の奥』

 ハーマン・メルヴィル 『書記バートルビー

 チャールズ・ブコウスキー 『くそったれ! 少年時代』

 ウィリアム・バロウズ 『ジャンキー』

 マルコム・ブラリー 『オン・ザ・ヤード』

 ウィリアム・シェイクスピアマクベス

 ロバート・ルイス・スティーブンソン 『ジキル博士とハイド氏

 エドガー・アラン・ポー 『黒猫』

 フランツ・カフカ 『変身』

 ウラジーミル・ナボコフ 『ロリータ』

 

私が読んだことのないのは、『書記バートルビー』 と 『オン・ザ・ヤード』 だが、他のものも、一応通読したという程度。

 

作品の長さもまちまちだ。『黒猫』 や 『変身』 くらいならそれほどでもないが、ブコウスキーのものとかナボコフなんかは、それなりの分量がある。

 

コンラッドを読まされて囚人たちが戸惑ったのは分かる気がする。話に聞くところでは、そもそも原文からして分かりにくい英語で書かれているという。それにナボコフも、原文は初めの方をちょっと見ただけだが、とてもじゃないが読み進めることが出来るようなものではなかった。

 

でも、刑務所の長期 (あるいは終身) 服役囚に、そんなものを読ませたというのが、面白くもある。

 

『ジャンキー』 は、バロウズの作品の中では、素直に読めるものだという気もする (何十年も前に1度読んだきりではあるけれど)。ブコウスキーの、その自伝的な作品も、面白いには面白かったという記憶がある (私が初めに読んだのがそれで、続けて図書館にあるブコウスキーの翻訳をあれこれと読んでいった時期があった)。

 

著者は、自分が読んで受けた印象を、囚人たちと共有できたらと思ったのかもしれないが、彼らの反応はすげないものだった。

 

「読書」 とは、あるいはそういうものなのかもしれない。その人その人の中に何かの反応がおこり、それは個人的なもので、こういうふうに読むべきだとか、こういうふうに解釈するのだとか、外から示されるものではないということ。

 

しかも、塀の外に出られた者もいたので会ってみると、もう 「読書」 なんぞとは無縁の生活に入っていたりしたのだ。

 

そういう 「失敗」 体験を報告したものとして読むのは、どこか間違ってると言われかねないが、どういう読み方をしようと、それは他人にあれこれ言われる筋合いはないともいえる。

 

 

Tracy Chevalier の Falling Anels は、特殊な書き方で書かれた作品だ。すなわち、全編、何人かの人物の独白だけで構成されているのだから。だから途中で亡くなってしまうので、 Kitty の独白は、あるところから先には出てこない。

 

ブロットマンの本が 「塀の中」 にかかわっているとすると、この Tracy Chevalier の作品は 「墓地」 に強くかかわっている。

 

これほど墓地が出てくる作品は珍しいのではあるまいか。

 

まぁ、「文学」 作品なんて呼ばれるものは、大体が変なものを素材にしているのだから、それはそれでいいのだろう。